<サイパン>第二次世界大戦以来行方不明だった女性の推定死亡証明書が発行される
1912年7月17日にサイパンで生まれたマリア・コンセプシオン・カブレラさんは、1930年代にアメリカ海軍によってフィリピンに移送され、第二次世界大戦中に死亡しました。彼女の遺骨がサイパンに戻ることはありませんでした。
2023年11月6日(月)、ジョセフ・N・カマチョ副判事は、「推定」と記され、カブレラさんが1942年4月10日に死亡したことを示す死亡証明書を作成するよう、人口統計登録局に命じました。同判事はまた、死亡診断書を完成させるために必要なその他の事実は、同判事の命令にある「事実認定に基づくものとする」と命じました。
裁判所は、マリアさんの一人息子ダニエル・コンセプシオン・カブレラ氏の最初のいとこであるアントニオ・B・カブレラ氏が、マリアさんの父親であるホセ・クルス・コンセプシオン氏の遺産管理人として申し立てを行った後、推定死亡宣告を行いました。
アントニオ・B・カブレラ氏は火曜日のインタビューで、甥でありマリアさんの孫であるダニエル・ジョセフ・C・カブレラ・ジュニア氏のためだと語りました。
裁判所命令によると、(1)本人が連続的に不在で、その間に本人と連絡が取れない、(2)本人が不在であることが、真面目に捜索または調査しても満足に説明されない、(3)本人が特定の死の危険にさらされている、という場合に、本人が死亡したと推定される;としています。
「具体的な死の危険性を含む3つのテストは、個人が適切に死亡したと推定される前に、それぞれ満たされなければならない」と命令は述べています。
ホセ・クルス・コンセプシオン氏とトリニダード・サブラン・コンセプシオン氏を両親に持つマリアさんは、1933年2月9日にマリアーノ・グマタオタオ・カブレラ氏と結婚し、グアムに移住して家庭を築きました。1937年1月15日、マリアさんはグアムのアガニャでダニエル氏を出産しました。
1930年代後半、マリアさんはハンセン病と診断され、アメリカ海軍によって、当時アメリカ領だったフィリピンのパラワンにあるキュリオン・レパー・コロニーに連れて行かれました。
1941年12月8日、グアムとフィリピンは日本軍に攻撃され、侵略されました。
マリアさんはグアムにもサイパンにも戻りませんでした。
1946年のある日、アメリカ海軍はマリアさんか彼女の遺体が見つからないとマリアーノさんに報告しました。
1947年、マリアノさんはサイパンに戻り、エスペランサ・S・カマチョ氏と結婚しました。1961年3月4日、北マリアナ諸島の血を引くマリアさんの父、ホセ・クルス・コンセプシオン氏がサイパンで亡くなりました。